西宮ライフスキル研究会

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子どもの「居場所」づくり

投稿者:おっちー

よっしんのお名前を西宮市の広報誌で発見しました。

 

子ども達が放課後に居られる場が減少しています。都市化、核家族化などいろいろな社会環境の変化により、子ども達が異年齢集団で外で遊んだり走り回っているような姿は、ほとんど見られなくなりました。それは、子どもの成長や発達にさまざまな影響を与えます。

西宮市と西宮市教育委員会が、平成27年度から進めているのが、子どもの居場所づくり事業です。基本的には平日の放課後、小学校の運動場や教室、公民館などで居場所をつくり、子ども達の自主的な遊びや学習を通して子どもの育ちを支援するものです。

よっしんは、この事業が始まったときから、安井小学校でコーディネーターをされています。安井小学校では、運動場を「のびのび広場」と名付け、子ども達は、サッカー、野球、バレーボール、ドッジボール、フライングディスク、バスケットボール、鬼ごっこ、手作りの木の遊具などで遊んでいます。図書館は「ほんわ館」と名付けられ、宿題をしたり、本を読んだり、ボードゲームをしたりしています。自然に異年齢での交流が生まれています。ボランティアの方が、5~6名毎日配置について見守っておられます。参加者は、1日200名ほどだそうです。よっしんは、その活動をまとめておられるのです。

 

詳しくは、西宮市民の地域情報誌『宮っ子』の3・4月号をご覧になってください。特集「居場所」づくりに多様な取り組みが、詳しく掲載されています。鳴尾東の「なるっこ食堂」など、子どもから高齢者まで様々な取り組みがなされているのがわかります。

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広島原爆の日

投稿者:おっちー

広島市平和記念公園で行われた平和祈念式典をテレビで観て、8時15分に一分間黙祷しました。

広島市長は、あの日の原爆を「絶対悪」と述べられました。

日常生活を送っていた30万人もの方が亡くなられ、今も原爆症と生きておられる方もいます。

7年前に私が入院手術しなければならなかった際に、勤務校の校長先生が私に一枚の手記を下さいました。

校長先生のお母さんの手記でした。

原爆の日のことが書かれてありました。

もう高齢で人前で話すことはできないとのことでした。

N校長先生は、パソコンに向かって入力作業をしていた私にさりげなくその紙を渡して、特に何を言うのでもなく去って行かれました。

12月も終わり頃、私は病休をとりもせずに終業式までの3日間を年休にし、冬休みを利用して、入院手術することにしていたのです。学級担任として学級の子どもたちを見守りたかった時期でした。それと、自分の中で病気を認めたくない気持ちがあったと思います。校長先生は、お母さんのことを通して、そんな私を力づけようとしてくださったのでしょう。

順天堂大学の樋野興夫医師は、マイナス×マイナス=プラスだとおっしゃいました。マイナス要因のある者同士が、掛け算のようにつながればようにプラスに転じる、と。

悲しいときに悲しい音楽を聴くと、静かに癒されます。

そんなことを思い出しながら、平和祈念式典にテレビの前で参列していました。

今、休職しながら観る平和式典は、これまでとはまた受ける印象が違います。

平和、命の大切さ、人の普通の暮らしを求めたい気持ちでいっぱいです。

「絶対悪」とは、何でしょう。

原爆。

兵器としての原爆。

原爆を作り出す心。持とうとする心。使おうとする心。

愛のない暗い世界。

愛のない心。

 

 

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62日間の入院

投稿者:おっちー

骨折して救急車で運ばれ、総合病院の整形外科に入院していました。

6人部屋です。

2カ月ほど同じ病室にいましたから、最後にはその部屋の主(ぬし)とも言われるほどになっていました。

誰よりも長居をしました。退院や転院、部屋を移る人、20人以上も見送りました。

最初は、ベットから一歩も出られませんでしたから、あまり他の方と関わることがありませんでした。ベッドごとに区切られたカーテンが、閉められていましたし。

でも、1週間に一度、院長回診があり、その際はすべてのカーテンが開かれます。部屋の人は、顔を見合わせ、挨拶をし合い、ぼちぼち話をするようになります。整形外科は、怪我で痛みがあっても、皆さんたいてい明るく元気でした。内科と外科では、雰囲気が違うようです。

傷ついている者同士、格好つける必要もなく、ありのままで、支え合うような会話が交わされました。皆さん、入院しているだけに、常にすっぴんでしたし。

整形外科は、年齢が高い方が多かったのですが、いいなと思ったのは、寄り添うご夫婦です。歳を取って、奥様が入院しているところに、ご主人様がやってくる。緩やかな会話で、かみあわなかったりしながらも、寄り添う感じです。そんなご夫婦を何組も拝見しました。お手本にしたいと思いました。

そんな中、LINEグループができました。骨折した3人が、骨折したからこそ実感したことを忘れないように、「337の3か条」も作りました。337は、病室の部屋番号です。

一つ、当たり前に感謝すること。(骨折して今まで当たり前にしていたことができなくなり、何気なくしていたことの有難さを痛感しました。これは私の発案。)

一つ、これから何が起こっても前向きでいよう。(怪我で大変でしたが、いつも笑顔ありの337号室でした。Iさん発案。)

一つ、焦らずに。(多忙な毎日で、どうしても急いだりあれこれ抱え込んでしまいがちでした。これからは、ゆっくりじっくり確実に。Fさん発案。)

退院後も再開して、食事を共にしました。お二人は、私よりちょっとお姉様で、含蓄あるお話をいろいろ聞かせてくださいました。

もう一つ4人のLINEグループ。こちらは30代の方と同世代だけどちょっと年下の2人との4人でした。ユーモアたっぷりの3人、笑いの絶えない時間を過ごせました。カーテンはたいてい開け放たれていました。それぞれの怪我や病状について話を聞いてもらったり、励ましてもらったりしていました。

看護師さんやお掃除のスタッフの方、リハビリの理学療法士さん、食事を作ってくださる方、事務の方々、もちろんお医者様、皆さんに優しくしていただきました。医療現場は多忙で、と言われますが、地域の小さな総合病院は、温かみのある癒しを与えてくださる場所でした。

退院しても週3回リハビリに通い、今は月に1回診ていただいています。

なかなか元のようには歩けませんが、今に感謝して毎日を過ごしています。

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休職しています。

投稿者:おっちー

足を骨折して、休職しています。

今年の2月早朝の通勤途中、横断歩道を自転車で走行中に、バイクに衝突されました。

横断歩道上に私は倒れ、自転車は15メートル以上も先に跳ばされていました。

立つに立てない。左足の腓骨脛骨を複雑骨折していたのです。

家からは、すぐの場所でした。

6日間は、左足が縮まないように牽引していました。

その間は、ベッドに寝たままで動けない、何も出来ない状態でした。

骨折もさることながら、体のあちこちが痛む状態でした。

左目の下はあざになり、肘も肩も背中も足も痛みました。

あざもあちこちできていました。

手術をして、プレートとボルトで脛骨を繋ぎ、針金で腓骨が支えられました。

痛みで夜も続けて眠ることが出来ませんでした。

気になるのは、6年生担任、学年主任としての任務でした。

でも、本当の意味で何も出来ませんでしたから、すべてをお任せすることに決めました。

少しは細々としたことの指示を伝えられたかもしれません。

でも、委ねることに決め、子どもたちや教職員の皆様を信じることにしました。

丸投げと思われてもいい、一つ一つ伺いを立てながら進めるのは、無理がありすぎます。

すべてをお任せして進めてもらう方がいいと判断したのです。

3月、病院から卒業式へと向かいました。車椅子に座り、介護タクシーに乗って。

6年生の皆は、立派に卒業式をすることができました。姿勢、声、態度、本当に成長していました。

式の後、6年1組の教室に車椅子を押してもらって入りました。

クラスの子たちは、卒業式をやり終えた清々しい雰囲気で満ちていました。

「ありがとう。」、心からそう思いました。皆と出会えて、担任をさせていただいたことに感謝しました。

「ごめんなさい。」、最後までできなかったこと。でも、皆さんきっとしっかり学べたでしょう。子どもたちの顔、様子からそう思えました。

一人一人にお祝いのカーネーションを渡しました。これは、私の代わりに担任をしてくださった教務主任のM先生の配慮でした。一人一人と握手をしました。握手に思いを込めて。

事故から42日。その夜、初めて連続して眠ることが出来ました。それまでは、1、2時間で目が覚めてしまい、深夜ラジオを聴いたりして過ごしていたのです。

今年度が終わった、と肩の荷が下りたように感じました。

入院は62日。それでも、まだ歩くには時間が掛かりました。

 

 

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信長おもてなし御膳

投稿者:よっしん

 昨日は、JR 岐阜で降り、鵜飼で有名な長良川を北に上り、「鵜匠の家 すぎ山」を目指しました。そこで、織田信長が客人をもてなした「信長おもてなし御膳」を食するためです。信長は接待上手として知られ、自分の勢力圏から最高の食材を取り寄せて客人にふるまっていたそうです。多くの文献に料理の詳細が残されており、森保夫料理長が、それを再現しました。調味料も出来るだけ当時の味を生かすために、砂糖・醤油は使わずに、味噌・たまり・酒・塩・蜂蜜が使われていました。
 今回は、本膳(天正2年〔1574年〕2月3日岐阜城での堺の茶人 津田宗及への献立〈川鱒の塩焼き・鯛なます・鮒甘露煮〉)、二膳(天正10年5月15日 安土城での徳川家康へのおちつき膳 饗応役は明智光秀〈巻き鯣・鮎のなれ鮨・蒸し鮑・鴨汁・茄子しぎ焼き・わか〉)、三膳(天正10年5月16日 徳川家康への朝食膳 鮎の塩焼・麩のこ串・雉の焼鳥・宇治丸・千枚漬)、与膳(天正10年5月16日 徳川家康への夕飯御湯漬献立 煮物・からすみ・砂肝の味噌焼・酢蓮根)などを味わいました。どれも豪華で美味しかったですが、私は蒸し鮑と巻き鯣が特に気に入りました。
今までに、近江休暇村で「安土饗応膳」を、信長茶寮で「安土御献立」を食し、今回鵜匠の家すぎ山で「信長おもてなし御膳」をいただきました。
65歳にして、歴女の仲間入りです。

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